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  • 執筆者の写真さびら 株式会社

【宮古島の戦争】宮古島市の住民避難壕展〜7/2(日)まで〜

更新日:2023年7月10日

皆さん、こんにちは。株式会社さびらの安里です。


梅雨も終わり、本格的な夏が到来してますね!! 皆さん、熱中症等には気をつけてくださいね〜笑

先日、株式会社さびら社員一同で宮古島を訪れていました。道中で訪問した、宮古島市歴史文化資料館で開催されている「宮古島市の住民避難壕展」について一部紹介します。

宮古島市歴史文化資料館(旧砂川中学校)

所在地: 〒906-0108 沖縄県宮古島市城辺砂川599




 

「宮古島市歴史文化資料館〜宮古島市の住民避難壕展」


皆さんは宮古島の戦争ってどんなイメージを思い浮かべますか?

沖縄戦っていうと、真っ先に沖縄島や伊江島の地上戦を思い浮かべると思います。 宮古島などの先島諸島では、日米の地上戦は行われていません。連合国軍(英国、米国)による艦砲射撃や空襲などが主な戦闘でした。


宮古島は台湾と沖縄島の中間地点にあることから、日本軍の航空機の中継基地としての役割を担うべく、飛行場建設が行われました。建設には、軍人や一般住民(婦女、少年少女など)が飛行場建設に動員されました。しかし、戦局の悪化に伴い、飛行場としての役割を担うことはほとんどできませんでした。

沖縄島同様に、宮古島でも地上戦に備え、満州や日本本土から約3万人の兵隊が守備や防御陣地構築のためにやってきました。また、米軍による海上封鎖や制空権の制圧により、多くの船が撃沈され、物資輸送がうまくできず、食糧難となりました。食料確保などを目的に、同時期、宮古島では学童や婦女、老人を対象とした集団疎開が行われ、約1万人が台湾・日本本土(九州)・沖縄島に疎開しました。しかし、対馬丸事件を受けて宮古島における集団疎開は行われなくなっていったそうです。


分 類 名:米国陸軍通信隊 沖縄関係撮 影 地:宮古島撮 影 日:1945年9月25日アルバム名:米陸軍通信隊写真  沖縄県公文書館より

 

宮古島の戦い


満州からきた陸軍、広島の呉からきた海軍では「物資」に大きな違いがあったそうです。海軍は兵隊と多くの物資を本土から船で輸送できたのに対して、陸軍は戦場となっていた満州からそのまま来たので、明らかに装備や壕の作りで海軍の方が優れていたそうです。陸海軍、多くの一般住民を動員し、宮古島の海岸線には、無数の陣地壕や特攻艇秘匿壕が作られていきました。沖縄島では、米軍を一日でも長く沖縄に引き付ける「出血持久戦」が行われたのに対し、宮古島では、敵を上陸地点に終結させ一挙に攻撃を行う「水際作戦」を行う想定でした。水際作戦が失敗すると、島の中央にある野原岳周辺の複雑な地形を活かし、最終的には持久戦を行う想定だったそうです。2005年の調査では、宮古島市における戦争遺跡群は総計62個確認されています。宮古島では、地上戦が行われなかったこともあり、トーチカや御真影奉護壕(昭和天皇の写真や教育勅語が保管される場所)など貴重な戦争遺跡が残されています。


宮古島を代表する戦争遺跡群(野原岳周辺)

・トーチカ3基 ・電波探知機壕3基 ・司令部壕・他31基


※航空自衛隊宮古島分屯基地内にあるため、一般の人は入れません。また、トーチカは航空自衛隊によって今も施設の一部として利用されているそうです。

(心の声:隠さずに見せて、防衛省さん!!)

※上記の写真は、宮古島のトーチカではありません。沖縄県公文書館より引用

宮古島の戦跡については下記のURLよりご覧ください!

宮古島に行くならるるぶより必読です!!!

綾道(あやんつ)〜戦争遺跡編〜

それ以外の文化財にも触れるならこちらも https://miyakojimabunkazai.jp/download3588/

 

マラリアや栄養失調で多くの島民が犠牲に・・


沖縄島への米軍上陸と同時に、宮古島では平良市街地などへの空襲が本格化し、島民は防空壕やガマでの生活を余儀なくされ、衛生環境の悪さなどからマラリアや栄養失調で亡くなる方々が多かったそうです。また、国立ハンセン病療養所「宮古南静園」は連合軍に軍関連の施設と誤認され、たびたび空襲や艦砲射撃にあいました。

1945年9月頃、約2000人の米軍が宮古島に上陸し、日本軍の武装解除を行いました。


宮古島の戦争特徴

・地上戦が行われていない。

・マラリアや栄養失調による死者が多い。

・イギリス艦隊が戦闘に参加

・1945年9月まで戦闘が続いた。

・島民の3分の1近くが兵隊に(約3万人)

・周辺海域では多くの船が撃沈


平和の礎では、宮古地区だけで約3500名が刻銘されていますが、正確な人数はわかっていません。


 

安里の所感

沖縄島では、地上戦やその後の都市開発により戦跡が減ってきています。そのなかで、宮古島は当時の戦いについて学ぶことができる貴重な場所が多く残っています。私たちは、先の戦いを後世に伝えると同時に、常に戦争を起こさない決意と防ぐためには、どうすれば良いのかを考え続けていきます。そのためも、貴重な戦跡や証言を改めて残していかないといけないと強く思いました。

宮古島で長年聞き取り調査を行っている学芸員さんが細かく解説してくれます。学芸員さんがヒアリングのコツを教えてくれました。「私は宮古島の方言を話すことができたので安心して語ってくれる方が多かったのではないかと」おっしゃていました。事前調査で、ヒアリングする側の本気度が試されるし、知識も深めていかないといけないと、当たり前のことながら改めて考えました。


書いた人 教育旅行チーム 安里拓也



 

参考サイトおよび引用

令和5年度 地域の特色ある埋蔵文化財公開活用事業

第1回「宮古島市の住民避難壕展」 

展示期間【入館無料】 2023年6月1日(木) ~7月2日(金)


綾道(あやんつ)〜戦争遺跡編〜

​​https://www.city.miyakojima.lg.jp/soshiki/kyouiku/syougaigakusyu/syougaikakusyu/files/aya_sensouiseki.pdf 【戦争の記憶】「戦争というのは人殺しだからね」 沖縄・宮古島の守備隊に所属 https://www.sagatv.co.jp/news/archives/2022081610544 宮古島で空襲と飢え 中之条町出身の元兵士が従軍記つづる 「恐ろしさ 行った者しか…」

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